ふるさとの山探訪・大隅の山風景 |
川は山と海への架け橋だ。川が元気であるためには山が元気でなかればならない。このことがふるさとの山探訪のきっかけとなった。 大隅半島の山は肝付平野を境に高隈山系を中心とした大隅半島中央部の山々と南部には国見山系の甫与志岳、黒尊岳、国見山があり、さらに南へ照葉樹林帯の稲尾山系を中心とした尾根が続く。美しいかこう岩の渓谷や滝も多く、滝巡りや巨木巡りのきっかけとなった。 |
大隅の山々探訪記、一部を紹介。順不同 →詳細は大隅の山一覧へ |
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大隅祭り風景一覧 |
農耕文化の息づく大隅半島の河川流域や水田地域には、稲を守り、稲の豊作をもたらす田の神様(たのかんさあ)が祀られ、人々は豊作を祈願しながら四季折々、稲作の豊穣を願い、春祭り・八月踊り、カギ引き祭り、棒踊りなど、大隅半島ならではの伝統民族芸能を受け継いできた。 |
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春祭りは、新暦2月から3月にかけて主に大隅半島の各神社で豊作を予祝して行われる祭りで打植祭り、正月踊り等の呼称がある。肝属平野一帯では、旧暦8月15夜の前後に日を決めて、水神に豊作を感謝して水神祭が行われる。 |
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大隅の文化財 |
大隅半島には県内最大級の唐仁古墳群、塚崎古墳、横瀬古墳を初めとして、大隅の歴史の足跡を示す史跡文化財が数多く残されている。近年、鹿屋市の古墳時代の遺跡からは象嵌を施された刀が出土し、話題を集めている。また、東九州自動車道の計画路線上にある串良町細山田の町田堀遺跡では縄文時代、弥生時代、古墳時代の貴重な遺跡が発見され、発掘作業が続けられ、太古の記憶が蘇ろうとしている。 |
大隅の文化財「記念物(史跡)」 |
※唐仁古墳群 |
※塚崎古墳 |
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中心となる1号墳は大塚古墳と呼ばれ、大塚古墳(一号墳)を中心とした前方後円墳と円墳合計約140余基の古墳群で、1934年(昭和9年)1月22日、国の史跡名勝天然記念物の指定をうける。古墳群の中心に位置する大塚古墳は県内で最大級の前方後円墳で、直径185m、高さ11m前後ある。 |
現在44基、このうち5基が前方後円墳で、円墳39基が残っている。第1号墳は直径15m,高さ3.3m の円墳で,墳丘のクスの大木は,国の天然記念物に指定されている。円墳の42号墳は直径65メートル、高さ6.5メートルあり花牟礼にある。39号墳は墳長80メートル、高さ約10メートルもあり同じく花牟礼にある。 |
※横瀬古墳 |
※ 高山城跡 |
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後円部頂上付近に「竪穴式石室」があるが、明治35年(西暦1902年)盗掘され、その際腐食した直刀、鎧と曲玉類が出土、内部は朱塗りであったという。墳丘およびその周辺より円筒埴輪片、形象埴輪等が出土している。前方後円の完全な形態を残していることで有名だ。 |
高山城は高山本城又は、肝付城とも称され、天正8年12月第18代兼道が阿多に移されるまで肝付氏の居城であった。文献の上では肝付兼久が叛(そむ)いたといって島津氏11代忠昌が自ら柳井谷に本陣を構えて永正3年8月6日から10月12日まで攻撃したが攻略できなかったという記録が残る。 |
※佐多旧薬園 |
※根占町川南宇都の板 |
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佐多旧薬園(きゅうやくえん)は旧島津藩の薬園跡で、この園内にはリュウガン、レイシ、オオバゴムノキ、アカテツ、ガジュマル等、当時としては珍しい植物や薬草が栽培された場所で、これらは本草学に造詣の深かった島津氏第25代当主(薩摩藩の第8代藩主)島津重豪(しまづ
しげひで)が薬園の経営につとめたという。 |
根占町川南宇都の板碑。宇都の板碑。西応六年(1293)の紀年銘があり、本県最古の板碑とされる。禰寝四代清親時代の建立であ。総高1.35m,身部の上の幅43cm,下の幅53cm,厚みは上部で28cm,碑身の上半部にキリーク種子を薬研彫りし,その下に紀年銘がある。 |
※土持堀の深井戸 |
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土持堀(つっもっぼい)の深井戸は笠野原台地の開発の苦難の歴史を物語る貴重な遺跡だ。掘られた時期は文政年間から天保年間(1818〜1843年)頃と見られている。井戸の深さ約64m、表面の直径約90cm、円筒形の素堀りである。深井戸のため当時は、人力で水を汲み上げるのは大変で、牛に綱を引かせて井戸水を汲み上げていたという。1927年(昭和2年)、笠野原簡易水道ができ、水の苦労がなくなった。 |
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