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高山川と水害史碑


肝属川の過去の水害を風化させないために高山川水害史碑から教訓を学びたい。


高山川水害史碑文一部を抜粋して掲載
昭和13年10月14日午後2時頃より降雨があり、午後6時には20mに達し、次第に強度を増し暴風雨となる。翌午前11までの雨量は高山町400mm、田代450mm、鹿屋町(当時)389mmと大隅半島肝属川流域が最も降雨が強く、支川の高山川および姶良川の水源地渓谷の随所で山腹が崩壊し急激な増水となった。河川水位は、高山町では15日午前4時6、30m(当時計画水位6,73m)に達し、一旦減水の状態を示したが、5時30分頃より再び上昇、6時には8,30mに達した。
流域で最も被害の大きかったのは、支川の高山川流域の高山町新富、前田、後田付近、支川の姶良川流域の姶良村、麓、上名付近であった。特に高山川上流域にあった鹿屋営林署の職員・人夫30名、日本水田湯谷発電所工事場30名、その他111名と計171名の死者、行方不明を出した既往最大の出水である。
注;流域内合併前の1市4町(鹿屋市・串良町・東串良町・高山町・吾平町)のデータでは死者・行方不明者が259人になっています。