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稲荷川をはさみ石橋記念公園、祇園之洲公園がある。石橋記念公園は、移設・復元された西田橋、高麗橋、玉江橋の3つが一体となった公園である。隣接する祇園之洲公園には薩英戦争砲台跡、岩永三五郎像、薩英戦争記念碑、西南の役官軍戦没者慰霊塔、ザビエル上陸記念碑、「我は海の子」の歌碑などがある。 |
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石橋記念公園 |
かつて鹿児島市の中心を流れる甲突川には、上流から玉江橋、新上橋、西田橋、高麗橋、武之橋という五つの大きなアーチ石橋が懸かり、「甲突川の五石橋」として親しまれていた。江戸時代後期、島津重豪の命により、城下整備の一環として架けられたもので、肥後(熊本県)かれた招かれた名工岩永三五郎により架橋が実現した。しかしながら、1993年(平成5年)8月6日の水害による洪水のため5石橋のうち武之橋と新上橋が流出した。そこで残された玉江橋、西田橋、高麗橋の3つを貴重な文化遺産として後世に残すため、河川改修に合わせてここ稲荷川河口周辺に移設復元して保存することになった。石橋記念館は、復元された玉江橋、西田橋、高麗橋の3つが一体となった公園として2000年(平成12年)に開園した。 |
西田橋 |
西田橋 |
西田橋は、江戸時代、鶴丸城から九州が街道へ至る島津家参勤交代の道筋にあり、城下の玄関口としての役割があった。かっては木造りの橋だったっが弘化3年81846)に架け替えられた。欄干には青銅製の擬宝珠が飾られた丸太を使い藩の威光を示す石橋となっている。橋げたを埋める石も橋の屈曲にあわせ柔らかいカーブを描き、精緻な作りは 当時の石工技術の高さを現している。 |
西田橋架橋 |
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欄干に青銅製の擬宝珠が飾られた西田橋 |
西田橋架橋 |
甲突川の五石橋を代表する西田橋。4連アーチ橋で全長50m、眼鏡橋とも呼ばれた。 |
西田橋御門 |
西田橋下流方向からの遠景 |
西田橋御門 |
高麗橋 |
高麗橋 |
1847年(弘化4年)架設、4連アーチ橋。上流側の水切石が垂直に近い勾配で立ち上がった独特の形状が特徴とされている。 |
高麗橋 |
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玉江橋 |
玉江橋 |
玉江橋は、五橋の中で最上流にある石橋で永吉町と下伊敷町を結んでいた。敷石は乱張りといわれるジグザグ模様に敷かれ橋幅は一番狭い橋である。 |
橋長51m、幅4.7mの四連アーチの玉江橋 |
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1849年(嘉永2年)架設、4連アーチ橋の玉江橋 |
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祇園之の洲
砲台跡 |
薩英戦争「祇園之洲砲台跡」 |
祗園之洲砲台跡は、文久3年(1863年)7月に起こった薩英戦争で、薩摩藩側の攻撃に使用された砲台のひとつだ。当時、80ポンド砲1門を含めた6門が配備され、その砲撃により英国軍に多大な被害を与えたが、英国軍のアームストロング砲により破壊される。イギリス側の死傷者63名。薩摩側の死傷者は13名だったがが、城下の被害はすさまじく西洋との力の差を知った薩摩藩は、この戦いを契機に開国へと動き始めた。現在砲台跡広場は、祇園之洲公園として整備され、石橋記念公園とつながり市民憩いのスポットとなっている。 |
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旧薩摩藩砲台跡の碑 「舊薩藩砲臺跡」と刻まれている。 |
岩永三五郎像 |
岩永三五郎像 |
江戸時代末期に天保改革を担当した家老・調所広郷が肥後国の石工・岩永三五郎を招いて甲突川に五石橋(新上橋・西田橋・高麗橋・武之橋・玉江橋)を架けた。1849(嘉永2)年、広郷が亡くなると、三五郎は川内の江ノ口橋を最後に郷里の肥後に戻る。1851(嘉永4)年、死去、58歳。 |
祇園之洲公園に建つ石工岩永三五郎像 |
薩英戦争記念碑 |
薩英戦争記念碑 |
祇園之洲公園の東端に「薩英戦争記念碑」が建っている。英国と薩摩藩の間で戦われた薩英戦争を記念して建てられた碑である。もともと、大正6年3月現在 の県立博物館(当時は県立図書館)構内にあったが昭和2年現在の地に移転した。 |
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薩英戦争記念碑 |
西南戦争官軍戦没者慰霊塔 |
西南の役官軍戦没者慰霊塔 |
祇園之洲公園に建つ西南戦争官軍戦没者慰霊塔である。西南戦争(明治10年(1877年)2月~9月)では、官軍6840余人、薩軍6400余人、両軍合わせて1万3240人の戦死者を出した。そのうち、鹿児島で命を落とした官軍兵士1270余人が当地に埋葬され、官修墓地として墓石があったが荒廃が著しく、昭和30(1955)年地下納骨堂に合葬され、西南戦争100年に際して慰霊塔が建てられた。
尚、薩軍の戦死者は南洲墓地に葬られている。曽於市岩川には西南戦争で戦死した約80基の氏名、出身地、戦地の場所、月日が刻まれた官軍墓地がある。 |
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ザビエル上陸地点の記念碑 |
ザビエル上陸記念碑 |
錦江湾に面した祇園之洲公園の一角にあるザビエル上陸地点の記念碑。インドのゴアに派遣されたザビエルは、1549年(天文18年)8月15日、ここ鹿児島・祇園之洲に上陸。島津貴久に謁見し、許可を得て布教活動を開始した。 |
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我は海の子」の歌碑 |
「我は海の子」の歌碑 |
祇園之洲公園の「我は海の子」の歌碑は、歌碑看板説明によると、 『文部省唱歌「我は海の子」の作詞者宮原晃一郎は、明治十五年鹿児島市加治屋町に薩摩
藩士の子として誕生した。十歳のとき父の転勤で北海道に移住したが、長じて小樽新聞社の記者であった明治四十一年幼い日、毎日のようにかよった故郷の海(錦江湾)の天保山海岸をしのんで作詞した「海の子」が文部省新体詩懸賞募集に応募して佳作入選した。翌年国語読本に掲載され、続いて明治四十三年に読本唱歌として、音楽の教科書に「我は海の子」と題し採用されてからこの歌は現在に至るまで、多くの人々に親しまれ国民的愛唱歌となって、広く歌われている。』とある。 |
桜島を背景に錦江湾に面した祇園之洲公園の一角にある「我は海の子」歌碑 |
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「我は海の子」歌碑 |
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鹿児島市内歴史探訪 |