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明治日本の産業革命遺産 「旧集成館・寺山炭窯跡・関吉の疎水溝」
 世界文化遺産鹿児島エリア構成資産「旧集成館・寺山炭窯跡・関吉の疎水溝」
明治日本の産業革命構成資産は、九州(福岡、佐賀、長崎、熊本、鹿児島)・山口を中心に全国8県11市にわたり、23の構成資産からなる。それらは相互に密接な関連があり、群として全体で一つの価値を有する資産として登録されている。今回、寺山炭窯跡と関吉の疎水溝を探訪する機会に恵まれ、探訪の足跡を振り返り、更新の一歩にしたい。
 反射炉跡<旧集成館 寺山炭窯跡  関吉の疎水溝 
     
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旧集成館 寺山炭窯跡   関吉の疎水溝
反射炉跡
(仙巌園)
 機械工場
(尚古集成館)
紡績所技師館
(異人館)
Content's 
 旧集成館 
  旧集成館  1851年に28代薩摩藩主となった島津斉彬は、幕末の世相から産業や軍備の近代化が急務であると考え、鹿児島市磯の地に「集成館」と名付けた日本初の工場群を築き、自力での反射炉建設に成功した。集成館事業は、製鉄や造船、紡績、ガス灯、印刷、薩摩焼、薩摩切子の開発など多方面に及ぶ。斉彬の急死により事業は縮小されるが29代忠義は父久光とともに集成館事業を再興し機械工場(現、尚古集成館本館)を建設し、日本初の洋式紡績工場「鹿児島紡績所」を設立した。集成館事業はわが国における産業革命のさきがけであり、関連する遺産群は日本近代化の源となった大事業の痕跡を未来に伝えるものである。
  反射炉跡
(仙巌園)
 反射炉跡(仙巌園)<1851〜> 
島津斉彬が近代化を進めるために仙厳園に建設した工場群のひとつが大砲の大型化、鉄製化であり、そのために築造されたのが反射炉である。反射炉は、溶かした銑鉄を鋳型に注ぎ、大砲を造るための施設跡で現在残っている反射炉跡は1857年に造られた精密な石組み技術で造られた二号炉跡基礎部である。基礎部分は石垣を造る技術、燃焼室などの耐火レンガは薩摩焼の技術を応用して造られたこの反射炉は日本の「ものづくり」の底力をしめす貴重な遺産として評価されている。反射炉は高炉で造った原料銑鉄をドーム状の溶解室で輻射熱を当てて溶かす施設で石垣横に用意した砂型に銑鉄を流し込んで砲身を鋳造する仕組みになっていて、かつては、この上に高さ16メートルほどの煙突がそびえ立っていたという。
 反射炉跡  
 反射炉跡  
反射炉跡と後方建物は尚古集成館本館(旧集成館機械工場)
 炉床の下部構造     炉床の下部構造
現地設置の案内板には炉床の下部構造がくわしく説明されている。 「規則的に並んだすのこ状の石の配列は通気用の炉下空間(空気層)で、炉内に湿気がたまることを防ぎ、炉の温度を適正に上昇させるために設けられていました。傾斜させた石組みは灰穴の灰落としで、この上に火床(ロストル)があり燃料(石炭または木炭)を燃やしました。またここから風を入れ、風は炉内を通って炎を導き、煙突に抜けていきました。」(設置案内板より)
 
炉床の下部構造案内板と反射炉跡
反射炉跡模型   反射炉跡模型
菊づくりにあわせてつくられたこの模型は実物の四分の一の大きさで精巧に再現されている。炉の内部で溶けた鉄が管を通り、反射炉の横に置かれた大砲の鋳型に注がれて、大砲の砲身が造られていく様子が表現されている。
 
反射炉模型

反射炉模型説明板 
   鉄製150ポンド砲レプリカ  鉄製150ポンド砲レプリカ
幕末の世相を反映して島津斉彬らが挑戦した近代化への情熱を象徴しているのが反射炉で造られた百五十ポンド鉄製砲である。齊昭等は大砲の大型化、鉄製化を図ろうとしそのために築造されたのが反射炉であり高炉である。
 
展示の鉄製150ポンド砲レプリカ
  集成館の水路跡  反射炉に必要な水<集成館の水路跡>
集成館の水路跡 
   
 機械工場
(尚古集成館) 
 

旧集成館機械工場(尚古集成館)<1865から> 
現存する日本最古の石造西洋式機械工場
斉彬の急死により事業は縮小され1863年、薩英戦争で集成館焼失。29代忠義は父久光とともに集成館事業を再興し、1865年(慶応元年)に機械工場(現、尚古集成館本館)を完成させた。建物は、レンガの代わりに溶結凝灰岩が使用され、基礎部に丸みを帯びた神社建築に見られる亀腹石を敷くなど和洋折衷の建築技法が大きな特徴である。
 尚古集成館壁面  
頑強な凝灰岩の壁で基礎部に亀腹石を敷き、和洋折衷の建築技法を採り入れた石造洋式建物の尚古集成館
 尚古集成館  
尚古集成館(大正12からは島津家の歴史と近代化事業を紹介する博物館として公開)
 尚古集成館  
大正時代に博物館に転用する際増設された玄関アーチ
 旧鹿児島紡績所技師館(異人館) 
旧鹿児島紡績所技師館(異人館)<1867から>  

<近代紡績の技術を伝えたイギリス人技師たちの居館>

1867年、日本初の洋式紡績工場となる鹿児島紡績所完成し、鹿児島紡績所で技術指導にあたった英国人技師の宿舎も建築された。日本の洋風建築のうち、現存する2階建住居としては最も初期のもので木造瓦葺きのコロニアル洋式のベランダが設けられていた。 

 
旧鹿児島紡績所技師館(異人館)エントランス
旧鹿児島紡績所技師館   
日本で最も初期の西洋建築で和洋折衷の建築様式が特徴の旧鹿児島紡績所技師館
寺山炭窯跡    寺山炭窯跡 
 <集成館で使用する燃料を製造>
寺山炭窯跡は、安政5年(1858年)島津斉彬の指示で築造された炭窯で石炭を産出しない薩摩藩にとって鉄を溶かす反射炉の燃料として大量の木炭が必要だった。磯地区の台地に3基の炭窯が築かれ、3基のうち所在が分かっているのはこの寺山炭窯一基のみであるという。吉野大地のカシやシイノキなどを原木として良質な木炭(白炭)を量産して集成館の工場群に運ばれた。壁面部分が残されたものの天井のドーム部分は失われている。寺山炭窯跡の特徴は窯壁とその周囲の土留めまでを溶結凝灰岩の切石を布積みして作り上げていることである。
 
凝灰岩を積み上げた窯壁
 寺山炭窯跡 
顕彰碑
 
八田知紀筆の顕彰碑<斉彬の先見性や炭焼事業の現況、斉彬への思いが刻まれている>
   関吉の疎水溝
 関吉の疎水溝 
<集成館の動力水車に水を供給>
集成館事業で必要な水を大きな河川のない磯地区では吉野大地を流れる稲荷川の上流の関吉から勾配を利用し水路を造り利用していた。凝灰岩によって狭められた川幅を利用し、水をせき止め水路に取り組みここから7km、台地の端部に達すると疎水は一気に集成館駆け下り、大きなエネルギーを得ていた。
 取水口付近
取水口付近、ここで水を堰き止め、取水口から疎水に水を流していた。
 堰の痕跡と取水口跡  
堰の痕跡と取水口跡
上流域方向   
取水口跡より上流域方向、大正時代に造られた現在の取水口はこちらにある。

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