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東牟婁郡串本町 TOPへ |
橋杭岩 |
橋杭岩(はしぐいいわ)は、串本から対岸の紀伊大島方向へ大小約40の奇岩が南西一列におよそ850mにわたって列を成してそそり立っていた。規則的な並び方が橋の杭のように見えることから橋杭岩と名付けられたという。この柱状の巨石群は石英斑岩の岩脈が海食を受け、柔らかい泥岩部が速く侵食され、硬い石英斑岩だけが杭状に残されたものである(下記追記)。橋杭岩を通して見る朝日はとても美しく日本の朝日百選に認定。吉野熊野公園地域にあり、国の名勝天然記念物に指定されている。 HP作成日2012/06/30 探訪日2012/05/21
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橋の杭のように規則的な並び方をすることから名付けられた橋杭岩 |
橋杭岩風景 |
同日に撮った写真ながら撮る位置、場所によって違った橋杭岩の表情をとらえることができた。干潮時には岩の中ほど弁天島まで歩いて渡れるという。.橋杭岩を通して見る朝日はとても美しく日本の朝日百選に認定、機をみて再訪したいものだ。 |
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橋杭岩とは |
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今から1500万年ほど前(新生代第三期中新生の中ごろ)、熊野層群とよばれる砂や泥の厚い地層が海底にたい積した。橋杭岩のまわりの黒っぽい地層は、その中の敷屋累層の泥岩からできている。この地層が堆積した頃、大島から潮岬付近の海底は火成岩の隆起帯になっていた。 その後、1400万年前になると、大峰山脈や那智から熊野にいたる地域で火成活動が起こった。この活動にともなって、北北西ー南南東の方向に伸びる地層の割れ目に沿ってマグマが上昇して冷えかたまり、橋杭岩のもとになる、直立した厚い板状の岩脈ができた。この岩脈は、石英班岩という火成岩からできている。 やがて、すっかり陸地となった紀南の海岸は、荒々しい黒潮の波にさらされながらも、橋杭岩の岩脈はまわりの泥岩よりはるかに固いために浸食されても残り、あたかも大島に向かって橋脚を並べたように、今もそそり立っているのである。現地案内説明文より) |
橋杭岩伝説 |
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現地の<橋杭岩の伝説>案内板より |
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