歴史探訪  竹田市 岡城史跡探訪  
 
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 岡城跡探訪
   <島津も攻めきれなかった難攻不落の「岡城」>
岡城跡は、竹田市東側の標高約325mの台地にある山城だ。義経を迎えるため築城したという伝説の山城は、中世には志賀氏の居城であったが現在残されている岡城跡は、文禄3年(1594)中川氏が三木城から入部して普請されたもので明治維新後に城館は取り壊された。城跡に立つとそそり立った石垣が現在もかつて「難攻不落」と言われた天然の要塞であったことを感じさせた。この堅牢さは、天正14年(1586)に始まった島津氏と大友氏の戦い「豊薩戦争」において島津の大軍が岡城を攻めを企てたが島津氏を撃破したことからもうかがわれる。岡城跡には二の丸跡、三の丸跡、本丸の中枢部を始め歴史を語る数々の遺構が残っていた。二の丸跡には、滝廉太郎の銅像が立っていた。荒れ果てた岡城に登って遊んだ思いが荒城の月の名曲を生んだとされ、滝廉太郎の心情が偲ばれた。この日は、岡城さくらまつりと重なり大名行列、甲冑武者行列が城下町を練り歩き、時代絵巻が展開され、あたかも戦国時代にタイムスリップした感があった。探訪日 2014/04/6
 岡城跡遺構散策  岡城跡遺構散策
大手門跡を目指す  城内には大手門跡、西の丸跡、桜馬場跡、朱印状倉跡、西中仕切跡、三の丸跡、二の丸跡、本丸跡、空井戸跡、家老屋敷跡等天然の地形を生かしたたくさんの遺構が残っていた。
 大手門跡
駐車場から満開の桜を観賞しながらカマボコ型石類塁の内側の急な階段を登り詰めると前方に高くそびえる石垣が見えてきた。大手門跡だ。大手門は、城の正面に位置する門で、本来、追手門という。追手とは、敵を追いつめる方向にあるという意味で、籠城のとき敵を正面に追いつめて戦いを集中させるのが目的であるという。
「史跡岡城跡」標柱        
西の丸石垣  
西の丸石垣を左手に大手門跡を目指す
カマボコ型石塁跡


大手門へ続く石階段
 
   
 大高くそびえる石垣とカマボコ型石塁跡
 
大手門へ続く急坂な石階段 
  大手門跡    
  大手門跡
    西の丸跡
西の丸東門跡      大手門から西の丸東門跡の階段を登り切ると北側の大きな草地の台地が開け、西の丸御殿跡をはじめ家老屋敷跡等、数多くの遺構が残っていた。ここは西の丸と呼ばれ、西の丸御殿は寛文4年(1664)に三代藩主久清(ひさきよ)により普請された。 
   
西の丸東門跡
西ノ丸御殿跡     
広々とした草地がひろがる西ノ丸御殿跡
 家老屋敷跡



 城代屋敷跡
   
家老(覚左衛門)屋敷跡
 
 城代屋敷跡
本丸跡を目指す      桜馬場跡・朱印状倉跡
桜馬場跡     西の丸跡の遺構や桜をさっぷり観賞して岡城中枢部である本丸・二の丸・三の丸を目指して桜馬場跡を歩いた。大手門跡から東へ本丸跡を目指す通路が桜馬場跡である。その北側(通路に向かって左側)には西から朱印状倉庫籾倉庫、 城代屋敷跡、籾倉庫跡などが並んでいた。
     
     大手門跡から本丸跡へ伸びる桜馬場跡はテントの露店が立ち賑わっていた。
   朱印倉庫跡

城代屋敷跡
 
 朱印倉庫跡<今で言う公文書館)

城代屋敷跡 
籾倉跡     
籾倉跡
 西中仕切跡     西中仕切跡

  籾倉跡を過ぎると西中仕切跡に着いた。正面の石垣が鐘櫓跡でクランク状に曲がった所が貫木門跡だ。西中仕切跡は、本丸と西の丸間を鐘櫓(やぐら)と対峙する隅櫓により区切られ通路の幅は約4mとなっていた。このあたりから眺望する三の丸の石垣は、九重の山並みを背景に城内でも岡城の造形美を象徴する箇所だった。
貫木門跡      
貫木門跡 
     
鐘櫓跡

 貫木門跡
西中仕切跡から三の丸跡の眺望
 
   
西中仕切跡から谷から高さが70mもあるという三の丸の石垣を望む。
    太鼓櫓門跡
太鼓櫓跡       西中仕切跡を抜けるとすぐ正面に見えてくるのが岡城の表玄関である太鼓櫓跡の石垣で岡城中枢部である本丸・二の丸・三の丸への出入り口だ。太鼓櫓門跡の石垣は、城内では最も大きな石材を使用しており,加工の度合いが極めて高度で切り込みはぎ、算木積みの石積をあちこちで見ることができた。
     
       大きな石垣を巧みに加工して作られ太鼓櫓門跡
 算木(さんぎ)積み



切り込みはぎ
   
     
   「算木(さんぎ)積み」の加工技術による石垣  「切り込みはぎ」の加工技術による石垣  
   長方形に加工し、横に長く交互に組み合わせて積み上げた算木積みの石垣 亀の甲みたいに石面と石面を密着させて積み上げる「切り込みはぎ」は石工にとって高度な加工技術だという。
      三の丸跡・二の丸跡・本丸跡
  本丸跡・二の丸跡・三の丸跡は、岡城中枢部の城跡だ。太鼓櫓跡を抜け三の丸跡へ入ると、そんあに広くない広場の正面に本丸を囲む高い石垣が目についた。三の丸は他藩の使者や家臣が藩主として対面する場として使用されたと考えられている 。正面の石垣の左側を進むと二の丸へ、入ってすぐの石段は本丸に通じていた。まずは二の丸の中心部へ。半島のように北へ張り出した二の丸跡へ足を踏み入れるといくつかの大きな記念石碑が立ち、一番の目当ての滝廉太郎銅像は中央の広場に立っていた。銅像のまわりは記念写真を撮る人たちで賑わっていた。 
 三の丸跡

二の丸跡
   
三の丸跡

二の丸跡
 本丸跡  
 本丸跡石柱。二の丸跡から石段を上がり、本丸跡へ。本丸跡は二の丸・三の丸に比べてひとまわりひろかった。
 本丸跡



土井晩翠詩碑

岡城天満神社
 
 本丸跡には土井晩翠詩碑や岡城天満神社が建っていた。

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      滝廉太郎銅像と詩碑
滝廉太郎銅像    本滝廉太郎は、少年時代を竹田で過ごし、荒れ果てた岡城に登って遊んだ印象が深かったとされ、明治34年(1901)に中学校唱歌「荒城の月」を発表している。 
   
二の丸跡に立つ滝廉太郎銅像、後方に九重連山を望む。
 銅像頭部    
銅像頭部
 楽器を奏でる人のレリーフ    
銅像台座に施された楽器を奏でる人のレリーフ
 「荒城の月」
土井晩翠の詩碑
   
本丸跡「荒城の月」土井晩翠の詩碑。<この詩碑は土井晩翠の直筆を刻んだもので二節目が晩翠詩集や小学校唱歌の「霜の色」とは異なり「夜半の霜」となっていますが時と場所によって発露される詩人の詩情によって書かれたものと思われます。・・案内板より>

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     岡城桜まつり<武者行列・大名行列> 
 武者行列   この日、竹田市では岡城さくらまつりが開催されていた。大名行列、甲冑武者行列が城下町を練り歩き、時代絵巻が展開され、あたかも戦国時代にタイムスリップした感があった。 
     
   武者行列
大名行列        
  大名行列風景

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     さくら名所百選 岡城桜f風景
大手門跡登り口の桜     岡城跡にはソメイヨシノを中心におよそ1500本の桜が植栽され、西の丸跡の広場や本丸跡などの史跡の石垣に美しく映える。さくら名所百選に選定されている。
   
大手門跡登り口石段の桜
 岡城西の丸跡のしだれ桜    
西の丸跡広場のしだれ桜
西の丸広場の桜     
西の丸跡広場の桜
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      追記:岡城とは
   
   
 海抜325mの台地、岡城阯その広さは実面積で100万㎡、その広さは東京ドーム(46.755㎡)の22個分にあたる。 大野川の支流、稲葉川と白滝川が合流する間の舌状台地上に築かれ、川岸からそそり立つその姿はかつて「難攻不落」と言われた天然の要塞であったことを感じさせられる。岡城は、文治元年(1185)大野郡緒方荘の武将緒方三郎惟栄(これよし)が源頼朝と仲違いをしていた弟 義経を迎えるため築城したと伝えられるが、惟栄は大持浦(兵庫県)を出航しようとして捕らえられ、翌年上野国(群馬県)沼田荘に流された。建武のころ豊後国守護大友氏の分家で大野荘志賀村南方に住む志賀貞朝は、後醍醐天皇の命令をうけ、岡城を修理して北朝と戦ったとされるが、志賀氏の直入郡への進出は、南北朝なかばの応安2年(1369)から後で(「豊後国志」巻六 直入郡の項による。直入郡代官職・検断職を預けられた以降)、その城はきむれ(騎(木)牟礼)の城であった。のちに志賀氏の居城は岡城に移った。天正14年(1586)から翌年の豊薩戦争では島津の大軍が岡城をおそい、わずか18歳の志賀親次(親善)は城を守り、よく戦って豊臣秀吉から感状を与えられた。しかし、文禄2年(1593)豊後 大友義統が領地を没収されると、同時に志賀親次も城を去ることになった。
文禄3年(1594)2月、播磨国三木城(兵庫県)から中川秀成が総勢4千人余で入部。築城にあたり志賀氏の館を仮の住居とし、(「中川御年譜」に「志賀湖左衛門親次が旧居に御住居」とあり、戦国時代の城郭を基礎として近世城郭の整備・城下の町割りなどをおこなった。)急ぎ近世城郭の形をととのえ、本丸は、慶長元年(1597)に完成、寛文3年(1663)には西の丸御殿がつくられ城の中心部分とされていった。(岡城は山城的殿舎、平山城的殿舎(本丸二の丸、三の丸)、平城的殿舎(西の丸)で構成され、これらが一体となっていることは近世城郭史上特異な城である。)
明治2年(1869)版籍奉還後の4年(1871)には、14代277年間続いた中川氏が廃藩置県によって東京に移住し、城の建物は7年(1874)大分県による入札・払い下げで(明治7年「大分県布告書」で県内五城の建造物、岡城は69棟が入札に付されている。)すべてが取り壊された。                  <現地案内板より>
 
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     新聞記事
新聞記事     
 南九州新聞記事 2014年4月14日
 
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