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道隆寺跡肝付町
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肝付町本城の高山城跡近くにある道隆寺跡は,江戸時代の三国名勝図会(注1)などの資料によると、鎌倉時代に宋から渡来した禅師蘭渓道隆(らんけいどうりゅう)が寛元4年(1246年)に開山したとされる。明治時代の廃仏毀釈で壊され、跡地には六地蔵塔、宝塔、灯籠や墓石、五輪塔などの古石塔郡が建ち並び、古い歴史を物語っている。蘭渓は道隆寺を開いた後、北条時頼に請われて、鎌倉へ赴き、1253年に建長寺を開山したと伝えられる。2006年(平成18年)には、6代島津氏久(うじひさ)と7代元久(もとひさ)の逆修供養塔が発見されている(注2)。2008年(平成20年)には、本山建長寺関係者が数回にわたり道隆寺跡の現地調査などをした結果、建長寺とにた鎌倉文化が色濃く残っていることを確認し、ゆかりの寺と判断したという。2009年(平成21年)には、臨済宗大本山建長寺の高僧一行が遺跡を訪問。遺跡訪問を祈念して廃仏毀釈で欠損したままの六地蔵塔が修復された。近年、諸調査が進み、これまで以上に道隆寺跡の史跡としての重要さが高まってきている。道隆寺跡は明治以降、個人が所有し、昭和46年に町指定文化財に指定されている。最終更新日2015/07/05 |
廃仏毀釈以来、140年振りに修復された六地蔵塔 |
歴史探訪ツアー 探訪日 2013・01・27 |
島津氏第六代氏久と第七代元久の逆修供養塔 |
道隆寺跡史跡からかつての島津氏と肝付氏の関係を知る貴重な遺跡が発見された。6代島津氏久(うじひさ)と7代元久(もとひさ)の逆修供養塔発見は当時の肝付氏と島津氏両家の関係や当時の史実を知る上で貴重な発見だ。今回の歴史探訪ツアーで専門家の指導のもと石塔を通してふるさとのくわしい歴史の一端にふれることができた。 |
平成18年に発見された6代島津氏久(うじひさ)と7代元久(もとひさ)の逆修塔と石塔についての説明風景 |
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石塔相輪のハートの文様。左写真「→」の部分を拡大 |
石塔が作られた時代や氏を知る手がかりとなる石塔と相輪文様。島津家の文様が入って、しかもハートマークが使われている石塔は氏久の石塔しかないという。 |
有史以来、天皇が同時に二人いた時代、これが南朝、北朝といわれてきた時代である。各地の豪族達は、自家存続のため利害と勢力拡大に努めていた。肝付氏が南朝方として活動したのは前半の二十年位であり、その後は北朝方の島津氏と行動を共にしている。十代兼里が島津6代氏久の一文字をもらい兼氏と改名し島津藩とは小康状態であった。・・・途中略・・・今回、道隆寺(観音堂跡)で発掘された石塔の島津氏六代氏久、七代元久の逆修供養塔であることは、当時の文献等を補うものであり、当地が宗教史を研究する上で他に類のない「聖地」として位置づけられ、特別な場所であったことが偲ばれる。現地案内板説明文より |
島津十一代忠昌夫妻の逆修供養塔 |
忠昌夫妻の逆修供養塔 |
左写真拡大「+」の文様 |
永正3年(1506)島津忠昌が肝付氏の居城、高山本城を攻撃したことがあります。その時忠昌は高山本城の北側の丘に本陣を構え、8月6日から10月12日にかけて猛攻撃を続けましたが攻撃できず無念の思いで鹿児島に引き上げました。この戦いの折に逆修塔としてこの供養塔を造立したものと思われます。・・・途中略・・・。鹿児島市の福昌寺跡の島津13代忠隆の墓塔の笠石には○に十で両側に松の葉を表現してあります。この忠昌の供養塔には十の表現のみで○の印がなく島津家の家紋の変遷を考証する上で参考になると思われます。また夫婦一蓮托生の思想をあらわす貴重な逆修塔です。この供養塔は柳井谷の陣(忠昌の本陣跡)の下、淵輪から移したものです。戦国時代を物語る貴重な石塔です。・・・(現地案内板説明文より)
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道隆寺跡を訪ねる 探訪日 2012・01・07
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道隆寺跡入り口表示柱 |
門柱跡地 |
観音堂跡 |
近年建立された観音菩薩 |
明治2年廃仏毀釈時に地下にかくされていたこの地蔵菩薩が平成21年3月30日、140年振りに出土した。 |
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禅僧たちの墓や琉球国僧之墓。当時、琉球国と交流があったことがしのばれる。 |
立ち並ぶ宝塔、灯籠や墓石、五輪塔などの古石塔郡が古い歴史を物語っている。 |
平成18年に発見された6代島津氏久(うじひさ)と7代元久(もとひさ)の逆修塔 |
島津十一代忠昌夫妻の逆修供養塔 |
廃仏毀釈以来、140年振りに修復された六地蔵塔 |
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追記 |
(注1)三国名勝図会 |
薩摩藩島津斉興の命で天保14年(1843年)に編纂された「三国名勝図会」。道隆寺の由緒について記述がある。 |
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道隆寺には島津貴久の姉であるお南の方が、菊花の帳(とばり)を道隆寺に寄進している。お南の方は 16代肝付兼続に嫁し、肝付、島津両家の抗争の渦中にあって不遇の一生を終っている。 |
案内板によると道隆寺はのちに、志布志臨済宗大慈寺の末寺となり、明治二年の廃仏毀釈まで法灯を守り続けてきたと記してある。 →志布志大慈寺へ 鎌倉建長寺 |