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歴史探訪 |
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清水・伊豆 |
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「清水・伊豆」の景色・歴史・食を楽しむ旅 |
コースと主な見学場所 |
清水<三保の松原>→<清水次郎長船宿「末廣」>→ <清水寿司横丁>→伊豆へ→<西伊豆堂ヶ島>→<下田歴史散歩><ペリー艦隊来航記念碑・了仙寺他>→熱海へ→鎌倉へ |
歴史探訪 静岡市清水区三保 |
三保の松原は、三保半島の東側に広がる景勝地で日本新三景、日本三大松原のひとつとされる名勝の地でユネスコの世界文化遺産「富士山-信仰の対象と芸術の源泉」の構成資産に登録されている。歌川広重の『六十余州名所図会』「駿河
三保の松原」を始めとする浮世絵にも描かれ遠く万葉歌人に詠歌され、その歌碑から遠く平安の時代に想いを馳せた。また日本の伝統芸能である能「羽衣」によって多くの人々に親しまれ、松の中には羽衣にちなんだ名前がつけられていた。駿河湾を挟んで眺望する絶景の富士山を期待したが、この日は曇天で視界が悪かった。 |
※『万葉集』 廬原乃 浄見乃埼乃 見穂之浦乃 寛見乍 物念毛奈信
(廬原(いほはら)の 清見の崎の 三保の浦の ゆたけき見つつ 物思ひもなし)
※『万葉集』風早之 三穂乃浦廻乎 榜舟之 船人動 浪立良下
(風早の 三穂の浦廻を 漕ぐ舟の 舟人騒く 波立つらしも) |
三保の松原 |
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国指定名勝「三保松原」風景 |
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総延長7kmの松林が生い茂る海浜と、駿河湾を挟んで望む富士山。この日はあいにく曇天で視界が悪かった。→富士山へ |
清水港・清水駅周辺静岡市清水区美濃輪町 |
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清水といえば清水次郎長、本名は山本長五郎。清水次郎長の船宿「末廣」は、明治19年に次郎長が清水波止場に開業した船宿を復元したもので次郎長の晩年の歴史に関する資料が展示・紹介されていた。清水港の船頭の子で侠客となって名を売ったが維新後は山岡鉄舟と親交があり、郷土の発展や英語塾・富士裾野の開拓などに尽力したことがわかった。 |
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幕末の侠客として知られる次郎長は、郷土の発展に尽くし、英語教育にも熱心だったことがうかがわれる。 |
英語塾を開講し、外国人教師が子供に教えている様子を表現した人形 |
清水寿司横丁:マグロの水揚げ量日本一の清水漁港でマグロを食す> |
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清水から伊豆へ 「堂ヶ島ニュー銀水」へ宿泊 |
堂ヶ島は、静岡県賀茂郡西伊豆町にある景勝地でその景色の美しさから「伊豆の松島」とも称えられる。堂ヶ島ニュー銀水は西伊豆の息を飲む絶景の地にあるリゾートホテルだった。伊豆の景色と海の恵みの鮮味に舌鼓し、至福の一時を過ごした。 |
ホテルから海を見下ろすオーシャンビューの堂ヶ島ニュー銀水 |
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新鮮な海の幸に舌鼓、これ以上の贅沢はない |
下田歴史散歩 |
徳川幕府とペリー提督が日米下田条約が締結された日本開国の国指定史跡。嘉永七年(安政元年-1854年)再来したペリーと幕府の間でもたれた日米和親条約の交渉過程で、開港地として下田港が提示されると、ペリーは調査船を派遣した。下田港が外洋と接近していて安全に容易に近づけること、船の出入りに便利なことなど要求している目的を完全に満たしている点にペリーは満足した。条約締結により即時開港となった下田に、ペリー艦隊が次々と入港した。そして、ペリー艦隊の乗組員が上陸したのが、下田公園下の鼻黒の地であった。ここを上陸記念の地として、ペリー上陸の碑が建てられた。<ペリー上陸の碑案内板> |
ペリー上陸の碑 |
記念碑のペリー像 |
この記念碑のペリー像は、故村田徳次郎氏の作品であり、記念碑の前の錨は、アメリカ海軍から寄贈されたものである。 ペリー艦隊の旗艦ポーハタン号は、長さ75メートル、トン数2415トン、大砲9門を積み、乗組員300名、航海には蒸気と風力の双方を用いる木造の軍艦だった。黒い船体に赤い横すじが入っていたため、「赤すじポーハタン」と呼ばれた。ペリー艦隊は、アメリカ東海岸のノーフォーク港を出航。喜望峰を回り、7カ月で日本に来ている。 |
下田歴史散歩<下田条約締結の地、了仙寺> |
法順山了仙寺は日蓮宗の寺で寛永12年(1635年)、第三代将軍徳川家光の命により、下田の繁栄の基礎を作った下田奉公今村正長によって創建された。日米和親条約の付属条約、下田条約が締結された場としても知られる。境内から参道にかけて無数のアメリカジャスミンが植樹されており、「ジャスミン寺」の別名も持つ。<国の史跡> |
開国の舞台となった了仙寺
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追記 |
このページは家族で計画した私的な還暦祝い旅行アルバムの一片です。家族、兄弟たちよ、たくさんの旅の思い出をありがとう。清水・下田編でした。 |
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