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法隆寺 |
日本最初の世界文化遺産「法隆寺」 |
聖徳太子が創建した日本最初の世界文化遺産「法隆寺」 |
法隆寺は、奈良県生駒郡斑鳩町にある寺院で聖徳宗の総本山で別名を斑鳩寺(いかるがでら)という。創建は日本仏教の草創期の7世紀初頭推古15年(607年)され聖徳太子ゆかりの寺院である。金堂、五重塔を中心とする西院伽藍と、夢殿を中心とした東院伽藍に分けられ境内の広さは約18万7千平方メートルで、西院伽藍は現存する世界最古の木造建築物群である。飛鳥仏をはじめ膨大な寺宝を所蔵し、法隆寺の建築物群は法起寺と共に、1993年に「法隆寺地域の仏教建造物」としてユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録された。建造物以外にも、飛鳥・奈良時代の仏像、仏教工芸品など多数の文化財を有する。ページ解説は一部案内のしおりを参考にしています。 |
飛鳥時代の姿を現在に伝える世界最古の木造建築法隆寺 |
中門前広場から眺望する西院伽藍遠景 |
南大門 |
南大門(なんだいもん) |
法隆寺入り口玄関の南大門 |
胸を弾ませて広々とした松並木を歩くと目の前に法隆寺入り口の玄関にあたる南大門(なんだいもん)が出迎えてくれた。この門は永享7年(1435)に焼失し、永享10年(1438)に現在の門が再建された門だ。 |
法隆寺入り口玄関の南大門 |
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中門 |
中門(ちゅうもん) |
飛鳥建築の粋を集めた中門 |
南大門をくぐると、その先に深く覆い被さった軒を支えるエンタシスの柱を持つ中門がずっしりと構えていた。西院伽藍の中門は飛鳥建築の粋を集めたもので重厚な扉と左右に立つ金剛力士像(奈良時代)は、東西にのびた廻廊の連子窓と対照的な組み合わせで、並列して立つ塔と金堂を壮麗に包み込んでいた。 |
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深く覆いかぶさった屋根、その下の組物や勾欄、しれを支えるエンタシスの柱は飛鳥建築とされる |
金剛力士像 |
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門の左右には日本最古の迫力のある金剛力士像がにらみをきかせて立つていた。 |
金堂 |
金堂(こんどう) |
本尊の釈迦三尊像や日本最古の四天王像などが安置されている金堂 |
金堂は、西院伽藍のメインのひとつでご本尊を安置する聖なる殿堂だ。威風堂々としたこの建物の中には、聖徳太子のために造られた金銅釈迦三尊像(飛鳥時代)が安置されていた。その左右には、金銅薬師如来座像(飛鳥時代)、金銅阿弥陀如来座像(鎌倉時代)、それを守護するように樟で造られたわが国最古の四天王像(白鳳時代)が、邪鬼の背に静かに立っていた。 |
飛鳥様式を伝える中央部が膨らんだエンタシスの柱。昭和24(1949)年1月26日、法隆寺金堂から出火し、国宝の十二面壁画の大半が焼損し、文化財防火デイ制定のきっかけとなった。 |
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金堂内部(内部は撮影禁止のため案内しおりより転載) |
五重塔 |
五重塔 |
日本に現存する最古の塔で初層内部には仏教説話の場面を表す塑造が安置されている。 |
法隆寺といえば五重塔、高くそびえ立つ塔は西院伽藍の中でひときわ存在感を示していた。日本に現存する最古の塔で高さは32.5m(基壇上より)。塔はストゥーパともいわれ、釈尊(しゃくそん)の遺骨を奉安するためのものであり、仏教寺院において最も重要な建物とされている。
この最下層の内陣には、奈良時代のはじめに造られた塑像群があり、東面は維摩居士(ゆいまこじ)と文殊菩薩が問答、北面は釈尊の入滅、西面は釈尊遺骨(舎利)の分割、南面は弥勒菩薩の説法などの場面が表現されている<案内しおりより>。 |
高さは約32.5メートル(基壇上より)で、わが国最古の五重塔として知られている。 |
金堂と五重塔 |
金堂と五重塔は法隆寺西院伽藍のシンボルだ。 |
大講堂 |
大講堂 |
仏教の学問を研鑽したり、法要を行う施設として建立された大講堂 |
金堂と五重塔の2つの建物の間を北へ進むと、大講堂があった。僧侶たちが仏教の学問を研鑽したり、法要を行う施設として建立された建物だ。鐘楼とともに延長3年(925)に落雷によって焼失したが正暦元年(990)には再建され、ご本尊の薬師三尊像及び四天王像もその時に作られている。 |
金堂と五重塔の2つの建物の間を北へ進むと、僧侶たちの研鑽の場、大講堂があった。 |
数ある法隆寺の建物の中でも最も大きく、他の建物と趣を異にし、ひときわ美しさが際立つ大講堂 |
鐘楼とともに延長3年(925)に落雷によって焼失し、正暦元年(990)に再建された大講堂 |
句碑 |
正岡子規の句碑 |
法隆寺鏡池畔に立つ正岡子規の句碑 |
西院伽藍内をゆっくり散策し、拝観出口の「聖霊院」前の鏡池西側の畔近くにくると、明治時代の俳人、正岡子規のあの有名な「柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺」の句碑が立っていた。 正岡子規が明治28年に法隆寺を訪れて、茶店で好物の柿を食べた時の有名な俳句だ。散策メインのひとつにしていただけに句碑との遭遇はラッキーだった。 |
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一行目「法隆寺の茶店に憩ひて」と前書き。二行目「柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺。法隆寺に立ち寄った後、茶店で一服して柿を食べると、途端に法隆寺の鐘が鳴り、その響きに秋を感じた、というのが句意。 |
聖霊院 |
法隆寺聖霊院(しょうりょういん) |
聖徳太子の尊像を安置するために、東室(ひがしむろ)の南端部を改造した聖霊院 |
句碑の立つ鏡池近くにある聖霊院(しょうりょういん)は、聖徳太子の尊像(平安末期)を安置するために、東室の南端部を改造して造られた。 聖霊院には、大型厨子に安置された秘仏の聖徳太子座像と侍者の山背王、殖栗王、卒末呂王、恵慈法師も安置されている。 |
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大宝蔵院 |
大宝蔵院(たいほうぞういん) |
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聖霊院からさらに北寄りの奥に足を伸ばすと真新しい伽藍が見えてきた。1998年(平成10年)に落成した百済観音堂を中心とした大宝蔵院だ。建物の内部には、有名な夢違観音蔵(白鳳時代)、推古天皇御所持の仏像と伝える玉虫の厨子(飛鳥時代)、蓮池の上に座す金銅阿弥陀三尊像を本尊とする橘夫人厨子(白鳳時代)をはじめ百万塔、中国から伝えられた白檀創りの九面観音像・天人の描かれた金堂小壁画など、わが国を代表する宝物類を多数安置されている。 |
大宝蔵院 |
法隆寺の寺域に並ぶ多数の建物のなかで最も新しく、境内の一番北寄りにある大宝蔵院 |
大宝蔵院と百済観音堂 |
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大宝蔵院全体は西と東の2つの宝蔵、そして北側の部分にある百済観音堂で構成されていた |
玉虫厨子
百済観音像 |
玉虫厨子 |
百済観音像 |
玉虫厨子、百済観音像<内部の仏像や仏殿は撮影禁止のため案内しおりより転載>。飛鳥時代作のこの仏像は、九頭身の外形が独特であるだけでなく、日本における木造仏像彫刻の最古に近い位置を占める貴重な像とされる。 |
東大門 |
東大門 |
西院と東院をつなぐ三棟造の東大門 |
大宝蔵院を出て東院伽藍の中心夢殿へ向かう途中に珍しい三棟造の東大門が建っていた。門の 屋根は簡素な切妻造で天井は張らず二つの屋根を並べたような構造になっていた。本来の屋根と見かけの二つを合わせて三つの棟がみられるので、三棟造と呼ばれ、奈良時代を代表する建物の一つだ。 |
西院東側の築地塀に設けられた門で、西院と東院をつなぐ道筋に東面して建つ三棟造の東大門 |
屋根の造りが特異な東大門 |
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屋根は簡素な切妻造で天井は張らず二つの屋根を並べたような構造になっていて、本来の屋根と見かけの二つを合わせて三つの棟がみられるので、三棟造と呼ばれる奈良時代を代表する建物の一つである。 |
東大門から東院へ続く風情のある参道風景 |
東大門から東院伽藍へ続く風情のある参道 |
夢殿 |
夢殿(ゆめどの) |
東院伽藍の中心「夢殿」 |
東大門から東院伽藍へ続く風情のある道路の先には聖徳太子が住んでいたとされる夢殿があった。太子の遺徳を偲ぶために、宮殿の跡地に天平11年(739)に建立された優美な八角円堂だ。八角円堂の中央の厨子には、聖徳太子等身と伝える秘仏救世観音像(飛鳥時代)を安置し、その周囲には聖観音菩薩像(平安時代)、聖徳太子の孝養像(鎌倉時代)、乾漆の行信僧都像(奈良時代)、平安時代に夢殿の修理をされた道詮律師の塑像(平安時代)なども安置されている<しおり>。この夢殿は中門を改造した礼堂(鎌倉時代)と廻廊に囲まれ、まさに観音の化身と伝える聖徳太子を供養するための殿堂として、神秘的な雰囲気を漂わせていた。 |
八角円堂の中央の厨子には、聖徳太子等身と伝える秘仏救世観音像が安置されている |
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舎利殿・絵殿 |
舎利殿・絵殿 |
夢殿の東側には、聖徳太子が2才の春に東に向って合掌され、その掌中から出現したという舎利(釈迦の遺骨)を安置する舎利殿が、西側には聖徳太子一代の事跡を描いた障子絵が納められた絵殿がある<しおり>。
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家族で巡る古都奈良、京都世界遺産・名所の旅 |
全行程 |
旅行形態:個人型(家族旅行) 参加者:3家族8名 旅行日:2014/9/21~9/23 |
※奈良編: 一日目:<午前>法隆寺→中宮寺→法輪寺(車窓)→法起寺(車窓)→慈光院 (昼食) <午後>薬師寺→唐招提寺→春日大社→東大寺 ※京都編:二日目:<午前>トロッコ列車(嵐山) (昼食)鯛茶漬け屋さん(HNANA) <午後>渡月橋→天龍寺→野宮神社→落柿舎→二尊院→清流寺 三日目:<午前>清水寺→銀閣寺 <午後解散>
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MYプライイベート写真ページ |
プライベート思い出写真:前年の家族旅行は「広島と宮島の世界資産巡り」でしたが今回は古都奈良と京都の旅を計画しました。写真の整理を兼ねてとりあえず「法隆寺」のページをアップ。兄弟諸氏、その後、元気にしてるかーい。また来年会おうね。(*^_^*) |