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方言歴史探訪 |
昔があって今がある・昔を知って今を知る 「鹿児島方言の歴史」 |
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鹿児島の方言歴史探訪 |
鹿児島の方言歴史探訪(薩隅方言) |
各年代に見られる鹿児島方言の歴史 |
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方言歴史探訪から学ぶ鹿児島の方言 |
方言の歴史を古い時代にさかのぼると新しい発見があり、方言の未来がみえてくる。 |
ことばは長い歴史の年月へ経て歴史的・風土的存在の中で創造され今日に存在する。方言の形成は中央からの歴史的な伝播や分岐だけでなく、隣接する土地からの語彙の流入など、複雑に絡んでいる。かつて都のあった京都で生まれた言葉は、人の口から口へと伝わって日本中に広がり、東北や南九州は、歴史的な方言の宝庫で文化遺産であるといえる。鹿児島方言の歴史や語源を各時代にさかのぼり、文献資料から鹿児島方言を検証し、今後の方言の研究・活動・活用に役立てたい。 |
隼人言語の気質 |
万葉集・歴史文献にみる隼人言語の気質 |
隼人の夜声と哀号(おらび) |
隼人の夜声と哀号(おらび) |
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日本書紀・万葉集文献に見える隼人族言語の気質
万葉集と夜声(よごゑ)
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隼人が文献に登場するのは682年で大隅隼人と阿多隼人が朝貢を行い、飛鳥寺の西でもてなされたという記録がある<日本書紀>。隼人はその勇猛果敢さと呪力をかわれて天皇の警備をし、夜には犬のように吠えて警備を行っている。宮門を守った隼人族のかん高い叫び声や吠声は、都の人びとには奇異に映っていたらしい。
ちなみに延喜式には、「宮廷に仕える隼人は、元日即位の日や外国使節の入城、践祚大嘗祭に、吠え声を発する決まりになっていて、行幸に際しても、同行して国境や曲がり角で吠え声を発することになっている。」とある。日本書紀には、「時に隼人、昼夜陵の側に哀号(おら)び、食を与へども喫はず、七日にして死ぬ・・・」とある。文中の哀号「(おら)び」は、現代かごしま方言の「おらぶ」と同系統で、雄略天皇が崩御したとき、近習ハヤトが昼夜を問わず、「おらび」叫び、号泣して七日間も食べず死をともにした表現である。このように「夜声」「吠声」「哀号」など、隼人の言語的特質を表す表現を奈良・平安の古い文献に見つけることができる。また、隼人族が発する言葉がよその人の注意を惹いたという歌を「万葉集」巻十一の恋歌に見ることができる。
隼人(はやひと)の 名に負(お)ふ 夜声(よごゑ)
いちしろく わが名は告(の)りつ 妻と頼(たの)ませ
「隼人の有名な夜声のように、はっきりと私の名は告げました。今後は私のことを妻として頼りにしてください。」といった意味である。当時は女に名を尋ねるのが万葉の求婚作法で男の求婚に答えた歌である。宮門を守った隼人族のかん高い叫び声や吠声は、都の人びとには奇異にうつり、強い印象を与え「隼人の名にお負ふ夜声」として詠まれたのであろう。ところで、中央と東国(東北)のことばの違いは万葉集で東歌や防人歌の収められた東国出身の詠んだ歌から多く確認できるが「隼人の歌」「九州の歌」などという項目はないので当時の隼人族がどのようなことばをしゃべったかは知る由がない。最も古いとされ隼人の方言に直接ふれた言語が「大隅国風土記」に記されている。原典は残されていないが鎌倉時代の文献に引用があり、注に「海中の州は隼人俗語に必至(ひし)と云ふ」とある。隼人との戦いの後、朝廷(政府)は訳語(おさ)への論功行賞を行ってなっていることから、当時言葉の面で隼人の言葉は独特であったといえよう。
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室町時代の鹿児島方言 |
方言的特徴がもっともよく現れる室町時代から安土桃山時代 |
「日本文典」 |
九州方言に関する文献は平安、鎌倉時代は空白になっていて詳細は不明だが16世紀になると宣教師たちの手で語学書がつくられるようになる。室町時代から安土桃山時代の文献をカバーしたのは日本耶蘇会の宣教師による語学書である。当時の語法を集大成した「日本文典(ジュリアン・ロドリゲス著)」は、日本の話言葉が激しく揺れ動いた時期にあたり、ことばの歴史をさぐるうえで貴重な資料になっている。 |
室町時代から安土桃山時代の鹿児島方言 |
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「日本文典」に見られる九州方言の特徴 |
「日本文典」(ジョアン=ロドリゲス著) 日本語訳1955年 |
「日本文典」(ジョアン=ロドリゲス著)1604ー日本語訳1955年」の方言のくだりをのぞいてみると都の南と北で地域的な音の変化が進み、「下(九州)の地方全般に関する附記」では、母音の「O」が「U」に変化した例を示している。「いっしょう」(一升)を「いっしゅう」、「きょう」を「きゅう」。いまのかごしま弁で語尾が短音化して「いっしゅ」「きゅ」というとろである。このころ都の南と北でも音の変化が進んでいて、「京ヘ築紫ニ板東サ」というようになる。板東は東北の地を指す。京都で「東京へ行く」というところが板東では「東京さ行く」になる。九州 築紫では「東京に行く」。南九州地方にも板東式の言い方が残っている。「東京セー行く」「東京サエ行く」。
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「メラスル」と「モウス」 |
「メラスル」と「モウス」 |
日本文典邦訳の『日本大文典』(1955)二巻の「申す」の項に『薩摩、肥前、肥後、日向等の国々於いて「上げ申す」「読み申さぬ」「聞き申さうず」など「マラスル」の代わりに盛んに使われている』とある。鹿児島方言には当時盛んに使われていた「モウス」が現代でも動詞の語尾に「モンソ」「モス」「モシタ」を付けて尊敬の意を表現する方言として残っている。「メラスル」は「差し上げる」の意の謙譲語で原型は平安時代の作品にあらわれる古語「マゐラス」から室町時代に「マラスル」、「メラスル」と簡素化し、のち、「マッスル」、「マッス」へ、それがさらに現代の丁寧語「マス」へ推移した。「メラスル」は、次のような会話の中に鹿児島の方言として今も残っている。「ソユ、アタイ、タモハンカ(それを私にください)の返事が「ハイ、メラセモソ(差し上げましょう)」である。 |
今も残る丁寧表現の「モス」 |
現代の生活に生きる古い鹿児島の方言「モンソ」「モウス」。「いっきょもんそ」の「モンソ」は「モウス」の変化した「モンソ」。動詞の語尾に「もんそ」をつけるだけでかごしま弁独特のていねいな奥ゆかしさを感じることばとなる。「いっきょ」は「行き会う」という意味。<方言のある風景> |
「日葡(にっぽ)辞書」 |
「日葡(にっぽ)辞書」 慶長8-9年(1603ー1604) |
ロドリゲスの「日本大文典」の他にもうひとつ語彙を収録した「日葡(にっぽ)辞書」は室町時代から安土桃山時代における中世日本語の音韻体系、個々の語の発音・意味内容・用法、当時の動植物名、当時よく使用された語句、当時の生活風俗などを知ることができ、第一級の歴史的・文化的・言語学的資料である。
3万語が収録され、このうち三百語ほどについては「下」という注が付され九州方言であることが示されている。京都は「かみ」(上)、九州は「しも」(下)と呼ばれていた。
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日葡辞書と鹿児島方言 |
「日葡(にっぽ)辞書」に記された鹿児島の方言 |
コブ=おおきなくも/トカギリ=トカゲ/ナバ=キノコ/フッ=きゅうに用いる草/果物などが落ちる=アユル、アエタ/背中に背負う=カルウ/ぞうりをはく=ぞうりをふむ/ケイレンのように身体や筋を走る痛みを感じる=スビク/にらむ=ネギル/おそろしくて目をさます=ねたまがり/ひきずりながら運ぶ=ヒコジル/補てん=フセ/離婚=ワンギ/ふかんぜんな、できの悪い=おろよい/大工の小僧=コドイ/腐る=ネマル/物事を手早く心よくするさま=ワサワサト/※四百年近く前のバテレンたちは、方言の持つ豊かな表現力を改めて教えてくれる。 |
女房詞 |
女房詞 |
女房詞(にょうぼうことば)とは室町時代初期ごろから、宮中奉仕の女官が主に衣食住に関する事柄について用いた一種の隠語的なことばでその一部が現在も残る。語頭に「お」を付けて丁寧さをあらわす(オカベ)。語の最後に「もじ」を付けて婉曲的に表現する文字詞(シャモジ)などがある。 |
女房詞例 |
鹿児島方言女房詞例
○オッケ(みそしる)→オミオツケから
○メシゲ(しゃもじ)→もともとは杓子のこと。語頭の「杓」に「もじ」がついたもの
○ケジャクシ(貝杓子)
○ヨゴシ(豆腐と野菜の和物)
○ヒダルイ(ひもじい)
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女房詞「おかべ」 |
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オカベと豆腐
豆腐が宮中の土蔵の白壁に似ていることから「カベ」、それに丁寧語の「お」をつけて「おかべ」. 。その他、製法を伝来した「岡部家」の説などがある。「豆腐」は奈良時代に遣唐使によってもたらされたという。 |
京都で見つけた「おかべ家」の写真 |
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上写真は京都でみつけた「おかべ家」の写真。「豆腐」のことを鹿児島方言で「おかべ」という。「おかべ」は女房ことばでもともと京都で使われていたことばだ。京都に「おかべ家」がある理由は不明だが鹿児島県人にとってはうれしい写真の一枚だ。 |
江戸中期の鹿児島方言 |
江戸時代と鹿児島の方言 |
ゴンザ辞典と物類称呼 |
木曽川治水工事で薩摩義士が言葉が通じなくて苦労したという。江戸時代中期18世紀前半のかごしま語の世界をロシアの薩摩語辞典(ゴンザ辞典)と日本で初めて作成された江戸時代の方言辞書「物類称呼」の文献、頼山陽の狂歌に訪ねた。 |
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ゴンザとゴンザ辞典 |
※ロシアの薩摩語辞典(ゴンザ辞典) |
1727年11月、ゴンザとその父、おじのソーザら17人はさつまのある港から薩摩藩のの命を受け船で大阪に向け出航した。領主の奉公人たちに届けるべき品物で積み荷は米や布、書物などだった。この時ゴンザは11歳、舵とりであった父が見習いのため乗せたといわれる。ところが、船は嵐に巻き込まれ六ヶ月と八日間にわたって洋上をただよい、カムチャッカに漂着した。当地でコサック隊の略奪と虐殺にあい、ゴンサとソーザだけが生き残った。二人は当時のロシアの首都・サンクトペテルブルクに送られ、女帝アンナ・イワーノブナの接見を受け後に日本語教師になった。1736年にソーザが43歳で、それから3年後の1739年にゴンザが22歳で亡くなるまで言語学者ボグダーノブと協力して「新スラヴ・日本語辞典」など6冊を記した。その中身は当時の純然たる鹿児島弁で、「日葡辞書」(1603)と後の「物類称呼」(1775)を繋ぐ18世紀前半の貴重な方言資料である。
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ゴンザ辞典と鹿児島弁文例・主な語彙 |
ゴンザの伝える18世紀前半の薩摩方言一例<日本語会話入門(村山七郎)> |
○ キヤイ ナラウフト(来たれ、生徒たち)
○ニカテ ヨカテ(新しいことに 良いことに)
○キヲツケ アノフテ(気をつけよ、彼に)
○ヂダ フィクウィ(地は低い) ○フェグロ クロカ(鍋すみ 黒い)
○イタジキャ サルク(床を歩く)
○ムゾガルフタ ムゾガラル(親切な人は喜びを迎える)
○ダマカシャ ダマカサル(おべっかつかいはだます)
○トキャ ナゲカ マタ ミシケカ(時は長いか又は短いか)
○テコウチャ テコ タタク(太鼓打ちは太鼓をたたく)
○イッ オイガイエ キヤルカ(いつ私の家を訪問するか)
○ ナシケ ナラワンカ(なぜ習わないのか=勉強しないのか)
○アカカヨカサケ(赤ぶどう酒) ○ショチュノマンフト(ぶどう酒を飲まない人)
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主な語彙 |
アコクロ(夕暮れ)、アド(かかと)、アマル(悪ふざけをする)、オゾム(目ざます)、カザム(嗅ぐ)、カル(背負う)、ガル(叱る)、キビス(くるぶし)、コサグ(けずる)、コソグル(くすぐる)、コヅム(積み重ねる)、コナス(苦しめる)、サルク(歩き回る)、シモガネ(氷)、スバ(口びる)、ソビク(引く、引きずる)、ダクマ(えび)、タマガル(びっくりする)、ダル(労働で疲れる)、チェノゲ(手ぬぐい)、ツブシ(膝)、ツト(ふくらはぎ)、トカギリ(とかげ)、トユル(静まる)、ナンカカル(寄りかかる)、バキ(伯母)、ビンタ(こめかみ、横つら)、フォキ(断崖)、フレ(訓令)。ベラ(枯れ枝)、ボクト(棍棒、長杖、丸太)、マグユ(迷う)、ムタ(沼地)、メラスル(贈る、下賜る)、ヨク(憩う)、ヨマ(紐、縄)。
青年・・・ニセ 私の・・・オイガト 近い・・・チケ 平和・・・ナカナオイ 少し・・・チット 知らぬ・・シタン
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ゴンザ辞典と鹿児島弁特徴 |
ゴンザの鹿児島方言 |
ゴンザの言葉の中から現代のかごしま弁に通じる語彙をひろうと際限がないが今日の薩隅方言の特徴をなす音のなまりが、すでに生じていることがわかる。 ○ aiはeに変わっており、ダイコンはデコン、
大工は「デク」、大名「デミュ」 ○シの音に続くラ行音もすでにタ行音に変化している。白髪(シタガ)、しらみ(シタメ)、知らぬ(シタン)、柱(ハシタ)、
頭(かした)、むしろ(むしと) ○らの音がダに変化:らっきょう(だっきょ)、ろうや(どや)、楽な国=自由都市(ダクナ クニ) ○語尾 ミ、ムがンに:こづみ(こずん) くらすみ(クラスン) 犬(イン) |
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物類称呼 |
物類称呼 |
江戸中期の方言を語るさい、注目すべき文献が1775年(安永4)、越谷吾山の「物類称呼」で方言語彙を集めた日本における最初の方言辞典である。全国各地の方言語彙天地,人倫,動物,生植,器用,衣食,言語の7部門に分け,訳500項の標語のもと全国各地の方言語彙4000を列挙する。そのうち九州関係460語、薩摩・大隅・日向 の方言が60余を数える。
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語彙例 |
物類称呼語彙例 |
○穴のあいたといふ事を九州にてほげたと云 ○薩摩にて人に超て智の有をゑずいと云 ○薩摩にてさるくと云はあるくなり ○大義なといふ事を薩摩にてだりがていと云○嫁いりといふことを薩摩にて御前(ごぜ)むかひと云 ○おめきさけぶと云詞のかはりに九州及四国にておらぶと云 ○物におどろくことを薩摩にてはたまがると云 |
物類称呼に記された 「土瓶」 |
語彙例 「土瓶」 |
どびん○薩摩にてちょかと云 同國ちょか村にてこれをやく ちょかはもと琉球國の地名なり 其所の人薩州に来たりてはしめて制るゆへにちょかと名づく 。 |
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土瓶・・・薩摩にて「チョカ」という」。 物類称呼」から「ドビン」、「ヤカン」の写し
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江戸文学の中の鹿児島方言「づたんばら」 |
頼山陽詠歌から |
「をごじょたち ちょと出ち 見て見やれ さくらじま
づたんばらから 月がはっでた」 |
鹿児島弁によるこの狂歌は、頼山陽(1780-1832)が薩摩来遊の際詠んだと伝えられ、鹿児島方言の特徴をよく表した歌である。「をごじょ」は娘、「づたんばら」は「横っ腹」という意味で、ここでは桜島の山腹のことを指している。「をごじょ」や「づたんばら」は現代の鹿児島方言の中に今も脈々と生き続けている。「づたんばら」は「胴体腹」、「土手っ腹」「布袋腹」等の語源説がある。江戸語大辞典(前田勇)では「胴体腹」と記し「抱火鉢をしてその浴衣を焦がし、どてっ腹に穴をでかしけるが」の用例をあげている。 |
明治初期の鹿児島弁 |
近代(明治・大正時代)の鹿児島方言 |
「鹿児島語ト普通語」 と「明治大正見聞史」 |
明治維新になって中央との往来が激しくなり、明治5年(1827)、学制が布告されると、他の地域の方言と同様、全国共通語化の道を進むことになる。そんな中、明治38年(1905)に出版された「鹿児島語ト普通語」の文献が目に付く。生方俊郎の「明治大正見聞史」(1926)から中央からみたこの時代のかごしま方言の気風を感ずることができる。 |
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「鹿児島語ト普通語」と鹿児島弁 |
「鹿児島語ト普通語」 |
明治38年(1905)に出版された「鹿児島語ト普通語」は編纂者は町田佐熊で普通語(共通語)を見出しにしてそれに担当する方言を附記している。外来の人がカゴシマベンの語彙やカゴシマ弁の耳ざわりになれるのに便利だったにちがいない。語彙は1300を数え舶来品を扱った語彙も紹介されている。
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「鹿児島語ト普通語」と鹿児島弁文例・語彙 |
末尾に示された会話文例 |
場面は旅館に客があがり、部屋に案内されて、火鉢と夕食を命ずるところまで。
○部屋が空いているか<間(ま)が エチョツカ>
○はい。いい部屋が空いております。どうぞおいでくださいませ。
<ハイ ヨカ間がエチョイモス。ドーカ オサイヂャッタモシ>
※母音アイai→エ
○旦那様を二階の五番にご案内申し上げなさい。
<旦那サーヲ ニケン五バンニ ゴアンネ モシャゲ>
○ここがお座敷でございます。
<コイガ オザシッ ゴザイモス)
○すごく寒いから火をもってこい。
<ワッゼ サミデ 火ヲ モッケ>
○すぐに晩飯を出してくれ。
<イッキ バンメシュ デックレ>
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語彙例から |
○内気の人(イメジン)嫌な人(カッタヒト)○隠元豆(モガン) ○ビヅロ(ガラス) ○ダンガサ(コウモリガサ)<「蘭傘」でオランダわたりのかさのこと。ランガサ→ダンガサ ○ランツケ(明治時代は「摺附木」(すりつけぎ)、現在はマッチのこと)。入荷したばかりらしくランがまだダンになまっていない。
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明治大正見聞史 |
生方俊郎の「明治大正見聞史」(1926年) |
明治大正見聞史と「おいコラコラ」 |
オイ コラコラ |
明治新政府の役職を薩摩藩出身者が多く占め、帝都の書生の間にも薩摩風の風俗が流行った。明治30年代に東京で学生生活をおくった生方敏郎は、当時の学生の誰もが蛮カラ(粗野・野蛮)で薩摩風に染まっていたと次のように述べている。『・・・私は東京へ出てこういう学生の風俗を見てかなら異様に感じたが、自分もたちまちそれに倣った。だがこういう風俗は、薩摩出身者の学生から始まったものらしい。その頃、薩摩の学生といえば実に幅が利いていた。そして乱暴で通っていた。彼奴は薯だといえば誰も皆一目置いた。薩摩は西郷南洲城山に・・大久保利通、この二大巨頭を失ったものの、なほその余力は天下を圧して、当時薩長政府と一口にいったが、学生の間においてまで薩摩の勢力は盛んであった。勢力と云ふよりもむしろ暴力といった方があたってゐるかもしれない。薩摩の学生が秀才であることは誰も許さないが、彼らの暴力に対してはほとんど圧倒されてゐた。今の不良少年という団体がちょうどその時分の薯に相当するのであるが、これを取締るべき警官がまたことごとく薩摩人で「オイ、コワ々」といふ調子だから、謂はば官許不良少年の形・・・』。県人にとっていささか耳が痛いが「薯」とは、当時帝都では一目おかれた薩摩出身者の書生のこと。薯の勢力についてまた、次のように描写している。『東京の学生の全部の風俗が、ことごとく薩摩の学生の風俗ではなかったか? 蓬髪汚面(ほうはつおめん)、短褐弊袴(たんかつせんけつ)<丈の短い粗末な上着に古び破れた袴>、醤油で煮しめたような手拭を腰にブラ下げ、右か左の肩を怒らせ、弥蔵というものを拵えて懐におさめ、目を怒らして歩き、友達に会えば「貴様どこへ行く」。君とは言わずして貴様と言ったものだ。これことごとく薩摩学生の模倣であったのだ。』明治政府帝都の警官は薩摩出身者が多く「貴様どこ行く」 「オイ コワコワ」(オイ コラコラ)は当時の薩摩ぶりを示すことばで、警察用語として確固たる地位を築いていた。 ※弥蔵というのはふところ手をして着物の中でにぎりこぶしをつくり、肩のあたりにつきあげるようにしたかっこうを言う。
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生方俊郎1882-1969 明治-昭和時代の随筆家,評論家。 |
戦後から現在そして未来へ |
戦後から21世紀そしてこれからの方言 |
戦後から21世紀
これからの方言 |
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方言は地域の文化遺産だ! |
方言を楽しもう/方言を次の世代へ |
鹿児島の方言は、明治5年(1827)、学制が布告されたのを機に全国共通語化の道を進むことになる。さらに戦後の経済成長と社会構造の変容により、地方から中央へ若者が流出する現象が生まれ、学校では徹底した共通語教育がすすめられた。また、家庭の核家族化やテレビやラジオなどの電波・マスコミ情報の発達は方言衰退の道へ一層の拍車をかけた。21世紀に入ると方言は地域の貴重な文化遺産であるとして方言見直しが進み、方言と共通語の複線化の時代を迎えている。今後、高齢化社会へ向けてコミュニケーションツールとしての方言だけでなく薩摩狂句などの文芸や伝統祭り等文化活動など癒しのツールとして活用し、発展させたい。一方、若い世代には方言離れというより方言を知らない層が増え、世代間に言語ギャップが生じている現実もある。今後、方言の保存を図りながら、次世代への伝承活動が望まれる。 |
方言歴史探訪振り返り |
方言歴史探訪振り返り |
国が統一され中央集権が進む奈良時代になると中央と地方の関係が生まれ、話し言葉も都・地方の言葉と分化し、方言が意識されるようになる。当時の隼人族が話す具体的な言葉は不明であるが万葉集や奈良時代に成立した日本の歴史書「日本書紀」の文献の中に「夜声」、「哀號(おらぶ」、「吠声」等、当時の隼人族が話す甲高い叫び声の言語的特質をみることができた。「哀號(おらぶ」は、「大声を上げる、叫ぶ」の意で現在も使われる鹿児島方言の「おらぶ」の語源につながり、方言歴史探訪の意義を感じた。室町時代になると「日本文典」の文献から鹿児島方言の特徴である丁寧語の「モス」の前身「申す」が17世紀初頭、すでにさかんに使われていて、その名残が現在に至っていることがわかる。同じく同時代の「日葡辞書」は今も聞き覚えのあるコブ、トカギリ、ナバ、、フッ、アユル、カルウ、ネタマガリ、フセ、オロヨイ、コドイ、ネマル等鹿児島方言を含め三百種程の九州方言が収録されていて貴重な研究資料となった。鹿児島で育った少年ゴンザが関係するゴンザ辞典は18世紀前半の薩摩の方言のたくさんの単語や文例を教えてくれた。同時代につなぐ日本最初の方言辞典「物類称呼」では「チョカ」に関する記述がおもしろかった。明治政府新都東京の書生の姿を書いた生方俊郎の「明治大正見聞史」の中の一節『・・・これを取締るべき警官がまたことごとく薩摩人で「オイ、コワ々」といふ調子だから・・・』のくだりは県人にとっては少々耳の痛い話だが当時の世相がよくわかり、「コラコラ」が歴史を語る鹿児島方言発信の共通語となり興味深かった。
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講座に生かす |
方言歴史探訪を方言講座に生かす |
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方言歴史探訪は、鹿屋市 図書館が主催する 「鹿屋市図書館ふるさと再発見塾」やおおすみFMラジオの方言講座など方言講座資料として活用した。 |
ふるさと再発見塾 |
伝えよう ふるさとのことば ~カゴシマ弁の魅力について語いもんそ~ ふるさと再発見塾 |
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鹿屋市 図書館が主催する 「鹿屋市図書館ふるさと再発見塾」(2014/07/19) |
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<ふるさと再発見塾> |
FMラジオ方言講座 |
おおすみFMラジオ方言講座 |
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古語が残る丁寧な鹿児島弁の世界 |
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おおすみFMラジオ方言講座 |
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参考文献 |
参考文献 |
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※上記文献以外の参考文献:鹿児島県のことば「明治書院」、当世書生気質(坪内逍遙)「明治書院」、かごしま弁「南日本新聞」、鹿児島弁入門講座「自著」、ゴンザやゴンザの関する文献は寄稿していただいた上村忠昌氏の「漂流青年ゴンザの著作と言語に関する総合的研究」を参考。
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このサイトについて |
このサイトは、鹿屋市 図書館が主催する 「鹿屋市図書館ふるさと再発見塾」(2014/07/19)で発表した内容を補充・補完して作成しました。作製日2015/02/12
※<ふるさと再発見塾> 伝えよう ふるさとのことば ~カゴシマ弁の魅力について語いもんそ~ |