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高須の風景・史跡鹿屋市

高須は、大隅半島の経済・文化の先進地で藩政時代には藩の蔵屋敷があり、鹿児島と肝属地方の連絡港として繁栄していた。その牽引的役割を担ってきたのが、鹿児島湾に面した天然の良港、高須港で海の玄関口として、海陸交通の重要な要港であった。1915年(大正4)鹿屋・高須間に大隅軽便鉄道が開通し、高須は鹿屋に一番近い港として活躍したが古江まで鉄道が延び、鹿屋港(古江港)の開発により古江港にその地位を譲る。町中をぶらり散策すると、かつての大隅線を偲ばせる駅跡やトンネル、国道沿の五輪塔、波之上神社等とたくさんの旧跡と出会い、それらが高須がかつて交通や産業・文化の役割で重要な位置を占めていたことを意味していた。

 高須の風景
大隅線跡    高須旧跡  高須漁港  高須海岸
   別窓
 高須刀舞  高須川風景  海水浴場  金浜海岸

大隅線「高須駅」廃線跡地の風景

 今も残る大隅線高須駅近くのトンネル、保存状態も良くトンネル内は電灯がつき通行できる。
 
   
大隅高須駅舎跡記念碑昔の大隅線の思い出を偲ばせてくれる。駅跡に建てられた「高須町民会館」は住民の語らいの場になっているかつての線路跡は自転車歩行者専用道路となりサイクリングロードとして活用されている

高須の旧跡 <五輪塔、波之上神社板碑、首切り地蔵西郷隆盛宿泊家戦跡>

 高須の五輪塔
 
鹿屋市文化財指定の高須五輪塔<伊地知氏宅の五輪等>
高須の五輪塔は鹿屋市内では最大で、南北朝時代の建立と推定される。この時代、大隅地方南朝方を激励するため都から下ったとされる僧都昌光の逆修供養塔と思われる。
   
 波之上神社
 
波之上神社参道
二体の仁王像は僧都昌光が創建開山した光明院別当のものとする説がある。今も波之上神社に関するたくさんの伝説が残っている。
 
波之上神社鳥居

有形文化財指定の波之上神社 
波之上神社の創建は正平3年(1347年)。三国名勝図絵に、「波之上三所権現と称し、正平3年勧請・・・当社その山上に建てる。古松翠を献じ、風帆漁舟社頭に来住する如く、景色佳勝なり」とある。

波ノ上神社境内の板碑
板碑は鎌倉時代に中国から伝来した供養塔の一種である六基あるが一基は赤色凝灰岩で柔らかく磨損が甚だしい。他の五基は黄色凝灰岩で造られているため六百年近く経た今日でも刻字まではっきりしている。これは県下でも重要な塔姿で、歴史研究上からも第一級の文化財とされる。
 首切り地蔵
 
首の部分が割れているので首切り地蔵の名称がついたと思われる。トンネルから出て造船所跡近くの岩場をくりぬいた穴に安置されていた。
 西郷隆盛宿泊家
   
高須川河口縁に残る西郷隆盛最後の宿泊地記念石碑,港湾改修に伴い足跡の一部は霧島ヶ丘公園の日本庭園に移設。 
 高須海岸にある防御陣地<トーチカ跡>
 高須海岸(海水浴場)北端の岩場に設置された敵を迎え撃つため機銃を据えるためのトーチカ跡
   
 進駐軍上陸地の碑
 太平洋戦争終決後の1945年(昭和20年)9月4日、進駐軍が高須の金浜海岸に日本本土初上陸した。反戦平和の願いを込めて高須町内会により、ここ金浜に進駐軍上陸地の碑が建立された。
   

 
 高須漁港
 高須港は、遠い南北朝・室町時代から天然の良好の港として重要な位置を占め、海陸交通の利便な要港であった。近年、漁港内の舟は遊漁舟が目立つ。
 
   
 高須海岸・海水浴場  
 高須の風景といえば何と言っても高須海水浴場だ。今も海水浴場は残っているがかつての賑わいはない。今は無き松林の中で食べたおにぎりの味と海水浴風景の記憶が今蘇る。
 
   
高須海水浴場


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