中福良の八幡神社の境内にある田の神は、高さが96cmで頭から背中にかけてシキをかぶり、大きな袖の着物を着流して、長い紐の帯をたらしている。両手を鍬の柄に置き、左肩の紐にはワラツト(わらでつくったつつみ)が結んであり、それにメシゲがさしてある。ワラツトの中身は種籾で、それを播きに現れた姿であると考えられる。顔にはベンガラ(赤色顔料)で彩色した赤みが残っている。刻名はなく年代不詳だが、肝付町東大園田の神(県指定)明和八年(1771年)に近い頃の作だと推定される。鹿屋市指定有形民俗文化財(昭和60年8月21日)。 |
田の神像正面 |
背面 |
雑感:背面の頭部は男根を表わしているという。子孫繁栄の願いもこめられた実にユニークな田の神だ。 |
検見崎城跡(町指定文化財) |
検見崎城は、肝付氏初代兼俊の四男兼友が検見崎を名乗り、鎌倉時代から代々城館を構えた場所と伝えられる。城跡には、鎌倉時代から南北朝時代にかけての五輪塔や室町時代から戦国時代と推定される宝塔があり、いずれも検見崎殿の墓と伝承されてきた。東側から西方下段にかけて、空壕や馬乗馬場の跡が残っている。(現地案内板資料より) |
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盛光寺跡肝付氏歴代の墓(町指定文化財) 旧高山町(肝付町) |
肝付氏は大伴氏の末で兼行の代に薩摩国神食村(現在の伊敷町)に下向 肝付氏初代兼俊が肝付郡弁済使となり、肝付を家号となし代々その所領を継いで一族繁栄していった。高山入部は定説がなく、四代兼員か五代兼石の頃ではなかろうか。盛光寺は五代兼石が菩提寺として、創建したとされる。ここには、八代兼重から後の代々の供養塔がある。またここは古石塔を研究するには絶好の場所であり、五輪塔宝塔筺印塔無縫塔等が散在している。(探訪配布資料より) |
第8代肝付兼重の五輪塔 |
肝付兼続の正室阿南御前の五輪塔 |
昌林寺跡 旧高山町(肝付町) |
昌林寺は肝付氏10代兼氏創建という。江戸期以降麓の郷土墓。ここは島津本家勝久嫡男亀山修理太夫(雪叟常好大禅伯)忠良の墓が現存する。元和4年(1618)
戍午12月22日死 加世田領主島津日新斎忠良、長男貴久を本宗を継す事を条件に島津家の内紛を収め本家を乗っ取った。又、ここには藩の財政改革を断行した図書笑左衛門広郷の墓もある。図書は当時500万両とも言われた赤字を巧みな改革(借金の250年賦、砂糖の専売等)で乗り切り、備えさえ作り出した。この金が後の明治維新へ利用された。(探訪配布資料より) |
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塚崎古墳群と塚崎の大楠(国指定) 旧高山町(肝付町) |
高塚古墳と地下式土壌墓が同一地域内にある。前方後円墳4基、円墳29基、地下式土壌10数基からなる古墳群である。一号墳の上にある塚崎の大楠は国の天然記念物に指定されていて樹齢1300年といわれる。国指定史跡の塚崎古墳群一号墳(円墳)の上に生えている全国でもめずらしい巨木である。
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塚崎古墳一号墳と塚崎の大楠 |
高山本城(国史跡指定) 旧高山町(肝付町) |
高山本城は長元9年(1036)伴兼貞が築城したともいい、又長寛2年(1164)に肝付初代兼俊築城とも伝えられるが真実とは思われない。この城は南北朝時代の築城形式であり、戦乱の世になったので此の要塞の地に築城したと思われる。城内は馬乗馬場、本丸、遠見、大手門、搦手門、マス形、一騎通し、侍屋敷の跡がはっきり残っている。天正8年当主が阿多に移されるまで肝付氏数百年に亘る居城であった。 →もっとくわしく読む |
空堀(水のない堀。堀底を通路にしてある。山城に多く敵を防ぐのに空堀は水堀よりすぐれているといわれていた) |
道隆寺跡の石塔群(町指定文化財) 旧高山町(肝付町) |