城探訪記   明石城     兵庫県明石市          ふるさと情報室へ

 明石城





明石公園


JR明石駅から並んで見えるきれいな二つの城、一度は行ってみたい城だった。城は明石城跡を中心にしてつくられた公園の中にあった。城跡を散策すると城の歴史だけでなく阪神・淡路大震災復旧の歴史がそこにあった。・・・
 

Contents
明石城とは 築城の歴史  明石城史跡散策  二つの櫓
二つの櫓の特色 土塀(帯郭)   天守台跡 本丸跡
 二ノ 丸・東ノ丸跡  薬研堀・桜堀 広場・庭園 平成の大修復  
城域散策MAP
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明石城散策MAP<ポイントをマウスでクリック>
 

 明石城  明石城とは 
 明石城とは     明石城は、徳川家康の曾孫にあたる小笠原忠真が将軍家と姫路藩本多家の強い支援をうけて築いた城である。 別名「喜春城」と呼ばれ、五代目城主松平信之のとき、儒学者片山兼山に命じて明石城内十景を選んだとき「喜春城」の雅名が生まれた。中国の故事「塩鉄論」にいう、「君主は仁を以て政を行わねばならず、あたかも春の草木を育てるごとく、善を賞するを貴ぶ」に由来するという。城跡は、明治16年公園として開園され、大正7年、新たに県立公園つぃて発足し、「日本の都市公園百選」、「全国さくら名所百選」に選定されている。園内敷地はかなり広く、城跡だけでなくスポーツ、レクリエーションなど市民の憩いの場として活用されている。
  築城の歴史 明石城築城の歴史 
 元和三年(1617)、小笠原忠真(おがさわら ただざね)が信州松本より明石に国替えとなり、現在の明石城より南西約1km程の所にあった船上(ふなげ)城に入ったことから明石藩が生まれた。 現在の明石城は、元和四年(1618)徳川二代将軍秀忠が、西国諸藩に対する備えとして、藩主忠真に新城の築城を命じたことに始まる。秀忠は姫路城主であった本多忠政の指導を受けるように命じ、3ヶ所の築城候補地をあげ、現在の地が選ばれた。幕府は普請費用として銀壱千貫目(時価31億円程度)を与え、3名の普請奉行を派遣している。 石垣の普請(=現在の土木工事)は元和五年(1619)の正月に始められ、工事は町人請負で行われたとされる。本丸、二の丸等の城郭中心の石垣、三の丸の石垣、土塁及び周辺の堀の普請が同年八月中旬に終わり、幕府より派遣の普請奉行はその任を終え江戸へ帰参している。幕府直営工事は本丸、二の丸、三の丸までで、その他の郭の石垣・土塁工事は幕府と小笠原氏の共同工事で行われている。 普請を終え、同年九月から藩主忠真により櫓、御殿、城門、塀などの作事(=現在の建築工事)が始められ、その用材は幕府の一国一城令により廃城となった伏見城及び同国の三木城などの資材を用いて建てたとされている。創建当初の坤櫓については次の資料があり、伏見城の建物を幕府からもらい受け、移築されたことを示している。
 「坤ノ櫓ハ伏見御城ノ櫓ナリシヲ此度公儀ヨリ公エ下サレコレヲ建ル」『小笠原忠真年譜』
 「幕府から伏見御城の三重櫓一つ下され、御本丸未申の角に立候也」『笠系大成附録』
各建物の建築は翌元和六年(1620)四月に完了した。
 築城当初の明石城は、本丸に御殿を築き、四隅に三重の櫓を配したが、天守台の石垣は築かれたものの、天守は建てられなかった。(パンフ 明石城 震災復旧の記録より) 


  明石城史跡散策    明石城史跡散策
明石城の主な遺構   本丸跡<坤櫓・巽櫓>、二ノ丸他、石垣、堀等
  坤櫓・巽櫓
二の丸、東ノ丸
石垣
堀等
明石城史跡は、本丸跡の坤櫓・巽櫓を中心に天守台、本丸、二ノ丸、石垣、堀等がある。 縄張りは、山の小高い丘の上にあり、西から東方向へ稲荷曲輪、本丸、二ノ丸,東ノ丸、本丸南に三ノ丸(現在公園)を配した連郭梯郭混合式の平山城になっていた。本丸には、四囲を守護した坤・巽・乾・艮の4基の三重櫓が建てられていたが、現在は、坤櫓・巽櫓2基(国の重要文化財)が現存した。震災復興の修復工事で復元した二つ櫓を繋ぐ土塀が、明石城の美しさをきわださせていた。以下、明石城史跡散策の足跡を辿ってみたい。 
  散策コース足跡  東の丸入り口→薬研堀→東ノ丸→二ノ丸→本丸→巽櫓→ 坤櫓→天守台→稲荷曲輪→石垣群→桜堀→剛の池→公園広場
城内への入り口・虎口  明石城への入城口・虎口      
 入城口・虎口    城内への虎口は二ノ丸、東の丸、天守台下、本丸北側などがあった。今回は芝生広場の登り口から上がり薬研堀のある東ノ丸入り口をスタートした。
 東ノ丸入口  東ノ丸入口桝形 
 東ノ丸虎口写真    
  東の丸外の登城入口  東の丸外の登城入口
   二ノ丸登城口
 二ノ丸入口 
 
二ノ丸登城口(二ノ丸、巽櫓へ)
本丸北入口


 天守台下入口
 
↑稲荷曲輪、桜堀、剛の池へ通じる本丸北虎口

↑芝生広場へ通じる天守台下虎口
二つの櫓 ふたつの櫓( 坤櫓と巽櫓)
 坤櫓   坤櫓(ひつじさるやぐら)
   明石城では最大の規模を持つ櫓で天守台のすぐ南にあり、天守閣に変わる役割をはたしたと考えられている。千鳥破風と唐破風を巧みに組み合わせた美しい構造の櫓となっていた。伏見城からの移築と伝えられている。
   
天守台から見下ろす坤櫓、櫓後方はJR明石駅方面 
 坤 櫓  
坤櫓東面。第二層は唐破風の上に千鳥破風が重なる二重破風の豪華なつくりになっていた。

下から見上げる坤櫓と石垣群が美しい。
 巽 櫓   巽櫓(たつみやぐら)
    本丸の南東端に築かれた三層の櫓で、妻部を東西に置く入り母屋づくりになっていた。
 巽 櫓  
 第一層に千鳥破風を置き、第二層は直線としている。
  巽櫓と石垣  
土塀の石垣群と巽櫓、算木積(さんぎづみ)の石垣が美しい。
 巽櫓と坤櫓の特色  二つの櫓(巽櫓と坤櫓)の特色
   坤櫓  巽櫓 
     
   明石城では最大の規模を持つ櫓で天守台のすぐ南にあり、天守閣に変わる役割をはたしたと考えられる。 本丸の南東端に築かれた三層の櫓で、妻部を東西に置く入り母屋づくりになっていて棟の方向が坤櫓と全く異なっている。 
   天守台のすぐ南にある高さ13.28mの入り母屋づくりで、妻部を南北に向け、棟の方向が巽櫓と異なってい る。 本丸の南東端に築かれた三層の櫓である。高さ12.53mのの隅櫓で、妻部を東西に置く入り母屋づくりである。  
帯郭(土塀)   二つの櫓を繋ぐ土塀(帯郭)
   震災以前には両櫓に接した7.3mにみが残存していたが失われていた中央部の81.6mを伝統工法で復元し、約100年ぶりに両櫓が白い塀で結ばれ明石城の美しい姿が蘇った。 
復元された帯郭(土塀)    
震災復興の修復工事で復元し、美しく蘇った土塀
 塀越しからの眺め    
   土塀の途中には展望台が設置され、塀越しに明石の美しい城下町を眺望できた。
   
巽櫓右側の後方に明石海峡大橋を眺望
 天守台   天守台
   天守台の石垣は築かれたものの天守は建てられることはなかった。
  天守台   
天守台は更地になっていて隅にはベンチが置かれ休息所・展望所となっていた。

 天守台からの眺め    
 本丸跡 本丸跡
  本丸には、天守閣がなくそのかわり本丸の四囲を守護した坤・巽・乾・艮の4基の三重櫓が建てられていたが、現在は、坤櫓・巽櫓2基が現存していた。本丸の大部分は木が植栽され、緑の広場となっていた。
  本丸跡広場    
   ↑本丸跡の緑の広場
  本丸北東隅の 艮櫓(うしとらやぐら)跡)
本丸東北の鬼門に位置する艮櫓(うしとらやぐら)は、明治初期に学校建築用材として解体され今は見られない。文献どおり四間(東西)×五間(南北)の櫓で礎石も確認されたが保存のため埋めもどし現在かわりの礎石がおかれていた。
 本丸艮櫓跡遺跡    
   ↑本丸北東隅に立つ艮櫓跡の案内板 
 二ノ丸跡 東ノ丸跡  二ノ丸跡  東ノ丸跡  
  二の丸、東ノ丸跡も木が植栽され、緑の公園広場になっていた。 
 二ノ丸跡

東ノ丸跡
 
二ノ丸跡
 
東ノ丸跡
 稲荷曲輪  稲荷曲輪
  本丸の北虎口を抜けると稲荷曲輪、桜堀へ通じていた。稲荷曲輪から目の前に天守台の高石垣を眺望できた。 
   
稲荷曲輪

稲荷曲輪から眺望する天守台高石垣
  薬研堀  桜堀  薬研堀  桜堀  剛ノ池
    薬研堀(やげんぼり)

 薬研堀とは薬研の形に似て、V字形に底が狭くなっている堀
 桜堀
 本丸の北にある桜堀
 剛ノ池  剛ノ池

公園の池の中でもっとも大きな池でカモたち野鳥が羽を休め、ボートで遊覧できる憩いの場となっていた。

 広場・庭園散策  明石城広場・庭園散策
 大手門跡の桝形

芝生広場
 


 
→始めに大手門跡の桝形を進み公園内へ → 芝生広場から2基の櫓を眺望
武蔵の庭園 武蔵の庭園 
 武蔵の庭園  
「武蔵の庭園」は、剣豪宮本武蔵が明石城の樹木屋敷を設定したといわれる。当時の庭園は現在の陸上競技場付近にあったという。
 ひぐらし池 滝   ひぐらし池  枯れ滝(大滝、小滝) 
  ひぐらし池   滝  
御茶屋  御茶屋  庭園内の御茶屋から眺望する坤櫓 
 御茶屋

御茶屋から眺望する坤櫓 
   
御茶屋から眺望する坤櫓   
  → 日時計と巽櫓 日本標準時子午線が通る明石市ならではの風景だ。
平成の大修復 平成の大修復
 修復工事の特色 巽櫓と坤櫓の二つの櫓は、明石城の中核をなす城だ。 阪神淡路大震災の修復工事では我が国の城郭建造物では初めてのレールに乗せて移動させ曳屋工法という手法で現地に移された。大規模なコンクリート構造物を設けず石垣石を一層積み上げる毎に裏土を層状に固める江戸時代とほぼ同じ工法の版築工法が採用されたこの工事は、規模大きさや時間的制約、さらには都市公園の災害復旧の中で伝統技術を駆使できたことから、「平成の大普請」と言われている。 
  震災直後の写真  
   震災直後の写真(左:坤櫓 右:巽櫓)   明石城震災復旧の記録パンフより
修復後現在の写真    
  修復後現在の坤櫓の写真 修復後現在の巽櫓の写真 
修復後現在の写真   
   修復後現在の坤櫓、巽櫓、両櫓を結ぶ土塀 

 大震災の修復  阪神・淡路大震災の修復(パンフ資料より)
 
坤櫓・巽櫓の修復
(パンフ資料より)
 

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